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大阪回春性感エステティーク 谷九店性感エステ
るり
22歳 T154 B90(G) W58 H92
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るり(エステティーク谷九店)
【『窮理日記』】
どうも、ルリです。寺田寅彦(1900年)『窮理日記』を読んだ。本作は、寺田が何気ない日常でふと感じ取ったことや観察したことについて、自由気ままさ溢れる筆致で綴った作品である。寺田ならではの言葉の調子とセンスの良さ、飾らないからこそ光る鋭さが存分に堪能できた。今まで読んだ中で一番好みの作品かもしれない。
特に印象的であったのは下記である。
「十日 動物教室の窓の下を通ると今洗ったらしい色々の骸骨がばらばらに笊へ入れて干してある。秋の蠅が二、三羽止ってやや寒そうに羽根を動かしている。
十一日 垣にぶら下がっていた南瓜がいつの間にか垂れ落ちて水引の花へ尻をすえている。我等が祖先のニュートンはいかにエライ者であったかと云う事を考えると隣の車井戸の屋根でアホーと鴉が鳴いた。
十二日 傘を竪にさす。雨は横に降る。
十三日 豆腐屋が来た。声の波の形が整わぬので新米という事が分る。
……十五日 今日のようなしめっぽい空気には墓の匂いが籠っておるように思う。横になって壁を踏んでいると眼瞼が重くなって灰吹から大蛇が出た。」※1
『窮理日記』というタイトルの通り、日常を素朴ながら確かな眼差しで観察し、観察できた現象に対する寺田なりのユニークな所感や見解が散りばめられている。だが、その内容だけではなく、それぞれが独特の空気や質感を醸し出しているところが良い。
まず「十日」の描写は、洗い立ての骸骨や秋の蠅から、寒さだけでなく湿った冷たい風が通り抜けるような不気味さがある。
次に「十一日」の描写は、突然日常でニュートンの偉大さを感じるという突飛さに加えて、そんな寺田に対してか何故か鴉が「アホー」と鳴く滑稽さがある。
そして「十二日」の描写は、傘と雨という物質だけでなく、それぞれの動き方までが対になるという美学めいた発見がある。それぞれが同じ語数で短く表現され切っているところが美しい。無機質に見えてかなり感性が働いていることが感じられる。私はこれが一番好きかもしれない。
さらに「十三日」の描写は、豆腐屋が来たことだけに意識を向けるのではなくその声に耳を澄ませ、かつ声を波の形という可視化した像で捉えているところが斬新である。そこから新米だと判断するのも面白味がある。
最後に「十五日」の描写は、空気の湿度の奥に墓の匂いを感じ取る感性と想像力が興味深い。そのうえ横になって壁を踏むという日常的な姿勢で、灰吹から大蛇が出るという奇怪な出来事が起こるというのが、現実とのズレを感じられて面白い。これは発生前に眼瞼が重くなっていることから、夢か現か分からないところもまた不気味な味を出している。寺田が空気の奥で感じた墓の匂いが、その不穏な出来事の入り口となっていたとも考えられて怪談めいた美しさもある。
なにより、「窮理」と聞くとこの世の理を探求するという崇高さを感じられるが、『スパーク』(1928年)にて「科学者はみんな永久に馬鹿でありたい」※2 と溢した寺田らしく、小さなことにも興味が湧いたら観察し考えを巡らすことも「窮理」である、と示唆してのけるところに鋭い諧謔を感じられる。
また、心からそれを窮理だと思っているのか、それとも遊び心で「窮理」としているのか、真意がなんとも微妙に暈されているところにも寺田らしい面白みを感じられる。もうこの時点でさらに好きだ。寺田の短い作品には、それだけ寺田の良さが様々な形で凝縮されている印象がある。他の短い作品もさらに読み進めたくなった所存である。
ほんじつも精一杯お癒やししますので、のんびりしていってください。よろしくお願いいたします。
―――――――
《参考文献》
※1 寺田寅彦(1900年)『窮理日記』、青空文庫、1-2頁。
※2 寺田寅彦(1928年)『スパーク』、青空文庫、6頁。
どうも、ルリです。寺田寅彦(1900年)『窮理日記』を読んだ。本作は、寺田が何気ない日常でふと感じ取ったことや観察したことについて、自由気ままさ溢れる筆致で綴った作品である。寺田ならではの言葉の調子とセンスの良さ、飾らないからこそ光る鋭さが存分に堪能できた。今まで読んだ中で一番好みの作品かもしれない。
特に印象的であったのは下記である。
「十日 動物教室の窓の下を通ると今洗ったらしい色々の骸骨がばらばらに笊へ入れて干してある。秋の蠅が二、三羽止ってやや寒そうに羽根を動かしている。
十一日 垣にぶら下がっていた南瓜がいつの間にか垂れ落ちて水引の花へ尻をすえている。我等が祖先のニュートンはいかにエライ者であったかと云う事を考えると隣の車井戸の屋根でアホーと鴉が鳴いた。
十二日 傘を竪にさす。雨は横に降る。
十三日 豆腐屋が来た。声の波の形が整わぬので新米という事が分る。
……十五日 今日のようなしめっぽい空気には墓の匂いが籠っておるように思う。横になって壁を踏んでいると眼瞼が重くなって灰吹から大蛇が出た。」※1
『窮理日記』というタイトルの通り、日常を素朴ながら確かな眼差しで観察し、観察できた現象に対する寺田なりのユニークな所感や見解が散りばめられている。だが、その内容だけではなく、それぞれが独特の空気や質感を醸し出しているところが良い。
まず「十日」の描写は、洗い立ての骸骨や秋の蠅から、寒さだけでなく湿った冷たい風が通り抜けるような不気味さがある。
次に「十一日」の描写は、突然日常でニュートンの偉大さを感じるという突飛さに加えて、そんな寺田に対してか何故か鴉が「アホー」と鳴く滑稽さがある。
そして「十二日」の描写は、傘と雨という物質だけでなく、それぞれの動き方までが対になるという美学めいた発見がある。それぞれが同じ語数で短く表現され切っているところが美しい。無機質に見えてかなり感性が働いていることが感じられる。私はこれが一番好きかもしれない。
さらに「十三日」の描写は、豆腐屋が来たことだけに意識を向けるのではなくその声に耳を澄ませ、かつ声を波の形という可視化した像で捉えているところが斬新である。そこから新米だと判断するのも面白味がある。
最後に「十五日」の描写は、空気の湿度の奥に墓の匂いを感じ取る感性と想像力が興味深い。そのうえ横になって壁を踏むという日常的な姿勢で、灰吹から大蛇が出るという奇怪な出来事が起こるというのが、現実とのズレを感じられて面白い。これは発生前に眼瞼が重くなっていることから、夢か現か分からないところもまた不気味な味を出している。寺田が空気の奥で感じた墓の匂いが、その不穏な出来事の入り口となっていたとも考えられて怪談めいた美しさもある。
なにより、「窮理」と聞くとこの世の理を探求するという崇高さを感じられるが、『スパーク』(1928年)にて「科学者はみんな永久に馬鹿でありたい」※2 と溢した寺田らしく、小さなことにも興味が湧いたら観察し考えを巡らすことも「窮理」である、と示唆してのけるところに鋭い諧謔を感じられる。
また、心からそれを窮理だと思っているのか、それとも遊び心で「窮理」としているのか、真意がなんとも微妙に暈されているところにも寺田らしい面白みを感じられる。もうこの時点でさらに好きだ。寺田の短い作品には、それだけ寺田の良さが様々な形で凝縮されている印象がある。他の短い作品もさらに読み進めたくなった所存である。
ほんじつも精一杯お癒やししますので、のんびりしていってください。よろしくお願いいたします。
―――――――
《参考文献》
※1 寺田寅彦(1900年)『窮理日記』、青空文庫、1-2頁。
※2 寺田寅彦(1928年)『スパーク』、青空文庫、6頁。
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