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るり

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るり
9月13日13時05分
by るり
るり(エステティーク谷九店) 【『応仁の乱』①】

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 どうも、ルリです。菊池寛(1987年)『応仁の乱』を読んだ。正直、私にとって室町時代は印象がやや薄い。斯波義廉や足利義教、足利義尚、足利義政などが居て、烏丸資任と失念したが誰か二人の計三人を合わせて「三魔」と呼んだことしか記憶に無い。後は戦国時代の前だということくらいである。
 ほぼスッカラカンの状態で応仁の乱を学べるため新鮮ではあるが、予備知識のある状態で読んだ前回の『山崎合戦』(1987年)とは違って学びを深める感じではなく、読みながら基礎知識を身につけたがゆえの稚拙な感想文になり得るのはご愛嬌である。


 さて、本作は1467年から11年続いた応仁の乱の経緯が、関係人物の為人などと共に描かれた作品である。前提として応仁の乱の起こった室町時代は、一揆による強奪や徳政令の乱発、博奕の横行といった秩序の崩壊した時代であった※1。背景としては貨幣経済の発展による銭貨需要拡大と、銭種による価値の差の発生などで銭貨流通が混乱したことや※2、長禄・寛正の大飢饉や疫病による凶作などから、結果酒屋や土倉へ借金を重ねた人々が徳政を求める動きがあった※3。
 だが、大飢饉で民衆が呻吟する中で8代将軍・足利義政は新邸建築を行い、それについて後花園天皇から御諷諫を受けている※4。戦乱と飢饉の世に背くが如く風流を好む文化人であった義政に、菊池は「政治家として落第」と冷徹な視線を向けつつも、「借金棒引きを迫って一揆の頻発した時代、生る可き時を誤った人間である」と、憐憫交じりの理解を示している※5。



 こうした世相の中で勃発した応仁の乱は、一般的には「将軍家の後継者問題と斯波氏・畠山氏の家督争いに、当時影響力のあった細川勝元と山名持豊が介入し、両派閥のもとで全国の諸大名を巻き込んだことで起こった」という具合に説明される。
 まず将軍家の後継者問題については、1464年、妻・日野富子との間に男児の居なかった義政は弟・義視を将軍職後継者としたが、その翌年に日野富子が義尚を出産したことで、義尚を後継者にしようという動きが起こった※6。その際勝元が義視の補佐に※7、持豊が義尚の補佐に就いたことが※8、一つ目の対立として語られる。
 次に、有力な守護大名である斯波氏・畠山氏の家督争いについては、斯波氏は家督を巡って義敏派と義廉派に、畠山氏も同様に政長派と義就派に分裂した※9。その際義敏と政長は勝元に、義廉と義就は持豊に属したことが二つ目の対立として語られる。これらの対立が波及し、やがて全国の諸大名も細川方・山名方のいずれかに分かれて争うこととなった※10、という具合である。
 ここまでの説明も相関図も、「東軍(細川勝元・足利義政・足利義視・斯波義敏・畠山政長ら)vs西軍(山名持豊・足利義尚・斯波義廉・畠山義就ら)」という、分かりやすい二者対立構造で紹介されることが多い。しかし、大筋は合ってはいるものの、調べてみるとそう簡単に説明できない複雑な動きが見えてくる。山崎合戦以上に、人間の思惑や情念が錯雑していたのである。



 特に注意を払いたいのは、細川勝元と山名持豊の対立関係である。一般的な説明では最初から敵対している風に感じられるが、応仁の乱勃発の手前まで両者は協調関係にあった。まず、1465年に伊予の支配権を巡って勝元と大内教弘・政弘との武力抗争が始まった際には、勝元が持豊へ大内討伐の軍事協力を求めている※11。また、翌年1466年には持豊の養女・桂昌了久が勝元の子・政元を出産している※12。
 とはいえ、完全に良好な間柄であったとも言い難い。赤松氏の再興を巡る動きからは、持豊に対する勝元の警戒心が垣間見えるためである。話は遡るが、発端は1441年に恐怖政治を行った6代将軍・足利義教が赤松満祐に弑された「嘉吉の乱」である。その際、後花園天皇の綸旨を受けた山名教之の軍勢が播磨国へ逃げ帰る赤松満祐を追い込んで自害させ、その首を京都へ送った※13。この論功行賞で赤松氏の播磨・美作・備前3ヵ国の守護職が山名氏に与えられ、山名氏は勢力を強めることとなった※14。
 その後長禄の変(1457年)で南朝から神璽を奪還した赤松氏は※15、8代将軍・義政から再興を認められ赤松政則が加賀半国を賜った※16。この際勢力を拡大する持豊に対抗し、勝元が赤松氏の再興を支援したとされる※17。本作において、菊池はこの赤松氏再興問題を、持豊と勝元との決定的な対立要因かつ応仁の乱の動因として劇的に描写している※18。



 しかしながら、前述した婚姻や軍事協力といった出来事を踏まえると、赤松氏再興問題を以て勝元が持豊を完全に敵とみなしたとは考えがたい。協調関係は保ちつつも、拡大する持豊の勢力を警戒し牽制する、という両立し得る思惑が働いていたのではないかと思われる。「警戒の対象=敵」という方向へすぐに進まないところからは、人間ならではの心の機微を感じられる。
 応仁の乱には、こうした分かりやすく二者が対立したとは捉えがたい人間模様が幾重にも交錯していて、教科書的で明快な解釈が難しい。長くなるため、ここまでを前半として区切りたい。次回は将軍家および斯波・畠山と持豊・勝元との関わりと、本作で印象深かった箇所などについて綴る所存である。
――――――――――
《参考文献》
※1 菊池寛(1987年)『応仁の乱』、青空文庫、5-6頁。
※2 日本銀行金融研究所「日本貨幣史 本文 - 貨幣博物館」、日本銀行金融研究所貨幣博物館HP、2026/09/09/15:28閲覧。
※3 LINEヤフー「窮乏した民衆が決起し、権力者を窮地に追い込んだ土一揆3選 - Yahoo!ニュース」、Yahoo!ニュース、2026/09/10/14:36閲覧。
※4 菊池寛(1987年)『応仁の乱』、青空文庫、2-3頁。
※5 同上、4-5頁。
※6 株式会社ダイヤモンド・ビジネス企画「応仁の乱──「誰も得をしなかった戦い」が歴史を変えた瞬間」、ダイヤモンド・ビジョナリー、2026/09/11/22:06閲覧。
※7 京都市「都市史14 応仁・文明の乱 - 京都市」、フィールド・ミュージアム京都、2026/09/10/20:15閲覧。
※8 同上。
※9 福井県立図書館「文正の政変 - 『福井県史』通史編2 中世」、福井県立図書館HP、2026/09/10/20:35閲覧。
※10 同上。
※11 家永遵嗣(2014年)「足利義視と文正元年の政変」、『学習院大学文学部研究年報』、18頁。
※12 同上。
※13 鳥取県「活動日誌:2015(平成27)年9月/とりネット/鳥取県公式サイト」、とりネット/鳥取県公式サイト、2026/09/10/14:50閲覧。
※14 同上。
※15 ウィキメディア財団「長禄の変」、Wikipedia、2026/09/10/15:36閲覧。
※16 神戸新聞社「<赤松氏の血脈>(5)政則 幼君、後期赤松氏の祖に | 深デジ」、深デジ、2026/09/10/19:50閲覧。
※17 福井県立図書館「浦上則宗らの工作 - 『福井県史』通史編2 中世」、福井県立図書館HP、2026/09/10/20:11閲覧。
※18 菊池寛(1987年)『応仁の乱』、青空文庫、8-9頁。

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